「四ツ井」と「四ツ居」にもやもやしたので調べました

 

どうも、今回は少しいつもと違う感じになります。 

 

というのも、以前「四ツ井」地区訪問記事で「四ツ井」だか「四ツ居」だかわからなくなり、その地区の人が見たら不快になってしまうのではないか、という記述をしてしまいました。

恥ずかしながら、詳しくは↓(今回の記事を機に内容を少し修正してあります。)

        四ツ居村はもとは福井城のあたりだった。築城の際、今の地に移された。「四ツ居」 とは四つ...
        中編です。前編は↓ それでは、那谷観...
        後編です。前の記事は↓ ...
          後編の後編です。前の記事は↓ ...

 

それならば、ちゃんと調べようということになり、

「社会の時間」の帰りに調べてきました。

 

 

 

 

ここで、以前失敗したことについて。

私は、四ツ井という地区に行ったのですが、当時記事には「四ツ居」と表記していました。

図書館で調べた内容も載せたのですが、その地に関しての知識や土地勘が無かったにもかかわらず、説明を余計に一部抜粋してしまった事。

 

これらが原因とされます。

 

 

 

 

 

というわけで、そんな失礼なことを放って措くわけにもいきませんし、私としてもなぜ「四ツ井と四ツ居があるのか」というモヤモヤがありますから、ここは調べた通り書きます。

 

 

 

 

 

では、ここからが「ヨツイ」の史実です。

 

□ 四ツ居に関して、書「福井縣の傳説」によりますと・・・。

 福井県庁の横手、天守台跡に古井があるが、それは足羽神社五座の神名の一つである福井という井戸で、他に類を無いよい水が出たそうである。福井城はこの福井を中心に造営せられた。さてこの福井を中心に都合四つの名井があった。一つは本丸から元福井分監跡への通路不浄門外の辺に、一つは百間堀のそば、元お花畑であった所で今は電車の引込み線の下になってしまった。今一つは中島の歓喜院にあった。福井城が造られる以前はこの福井を中心とする以上四つの井戸に恵まれた区域を四ツ井村と呼んでいたが、それが福井城地となるについて、四ツ井の名義と共に住民を引き移らせたのが今の吉田郡丸山東村の四ツ居であるという。

 

一応、「四ツ井村」が「四ツ居」になったということは事実のようです。

 

 

では、「平岡山」があるのはどちらなのかと言いますと、地区の欄では・・・。

下四ツ居

となっていたのです。

 

 

???

平岡山があった現県立病院の地区は「四ツ井」のはずです。一体どういうことなのでしょうか・・・。

 

 

そこで別の書籍を見てみることに・・・。

□ 書「福井県の地名」日本歴史地名大系 平凡社 からです。

四井村とは・・・(←まずこの「四井村」の時点で?マーク)

志比口1~3丁目、四ツ井1~2丁目、米松1~2丁目、松城、北四ツ居、南四ツ居の区域である。正保郷帳以降に下四井村、米松村、北村、渡村にわかれ、貞享二年の越前地理指南以降には、米松村以以外は各々下四居村、北四居村、四居渡村と記されている。四居渡村は荒川の渡河集落。下四居村の北には平岡山があり、麓に山ノ前、福井城下に内中島の枝村があった。

 

はいここで出ました「下四居」。

しかも平岡山の名前まで。

「下四ツ居」という地区(村)は、現在ありませんよね。某マップで探しても、「四ツ井、北四ツ居、南四ツ居 、北四ツ居町 、北四ツ居町」しかなく、「下四ツ居」なんてところはありません。

 

ということはですよ・・・

「下四ツ居」がそこからさらに現在の「四ツ井」に名前を変更したということですよね。

 

「四ツ井」から「四ツ居」になり、また「四ツ井」に戻ったというところでしょうか。

 

 

見えてきました見えてきました。

 

 

 

もう、この区域が四ツ居だったんですね。

 

ん?ちょっと待てよ。ということは、

私が以前書いた記事のタイトルも内容もあながち間違いではなかったということ??(米松の方は間違いでした。ごめんなさい。)

 

 

いやでも、その史実を知ったうえでないと正しいとは言えませんね。そうです、私は間違っていたのです。

 

 

 

 

 

 

というわけでした。

なぜ「四ツ井」が「四ツ居」になったのか、そしてその後もまた一部の地区だけ「四ツ井」に戻したのか。そこはわからなかった、書いていなかったのですが、なんとなくの歴史は振り返り、知ることができたと思います。

伝説らしい伝説だけでなく、地名の謎も深いものがあります。

 

 

 

それでは、終了。

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