小浜市 矢代区と手杵祭の「福寿寺 矢代観音」伝説

今回は小浜市矢代です。

まあ、お察しの通り前回の「弘誓寺」とあわせて訪れたのです。

 

 

さて、この矢代区には有名な祭りがあります。

県指定無形民俗文化財にも登録されている、「手杵祭」という祭りです。

 

これには、矢代の海岸に一体の観音と唐の王女と8名の召使い(全員で8名ともいわれる)を乗せた船が流れ着いた伝説に由来しているそうです。

まあ、有名なので調べればたくさん出てくるでしょうけど。

 

他にも

「清水又六屋敷、菖蒲の前伝説」

源三位頼政の「ぬえ退治伝説」

にも深くかかわる地なのですね。これが。

最高ですね。

 

そんな矢代地区。早速行きましょう。

 

こちらが「福寿寺」の観音堂です。

これを俗に「矢代観音」というわけです。

 

 

この矢代観音で一番メインな伝説が先ほども言いましたが、やはり「手杵祭」の由来ともなっている、

矢代の海岸に漂着した唐船の伝説

でしょうかね。

 

伝説「矢代観音」

むかし、矢代と阿納の境の浜へ、九人の女が乗った一隻の船が流れ着いた。これを見た両村の人たちは、それぞれの船を自分の村の方へと招いたが、不思議にも阿納の方へは行かないで、矢代の浜へついた。
 女の中のひとりは、唐のある王の娘で、他の人たちは、その召使いの人たちであった。ある事情によって、王は娘に、一体の観音と八人の召使いとたくさんのお金を持たせて、一隻の船に乗せて流したのであった。
 その船が流れ流れて矢代の海岸に漂着した。村の人たちは、唐の女がやってきたというので、浜へ出かけていった。なるほど九人の美しい女が乗っていた。皆のものは、珍しそうに眺めていたが、女たちがたくさんお金を持っているので、そのお金がほしくなり、悪心をおこした。

 ちょうど三月の節句の日で、村では家ごとに餅をついていたので、そのきねで女たちを殺して、姫たちの持っていたものは、残らず奪ってしまった。ところがまもなく、悪病が流行した。お祈りをしても、悪病はますますはげしくなり、村の者は、非常に悩んだ。そこで、姫を殺したり、船中にあった観音さまを粗末にしたりしたことのたたりに違いないと気づき、姫たちが乗ってきた船材で、堂を建て観音さまを安置した。また姫は弁天さんとして村に祭った。そのうちに、村人がなやんでいた悪病もやんでしまった。今ある観音さまは、昔のままのものである。
 毎年四月三日、村のお祭りの日には、頭にしだの葉をかぶり、顔を墨でくまどり、きねをもって、観音堂の前で姫たち九人を殺すまねをして、「てんにょ舟の着きたるぞ、唐舟着きたるぞ、福徳や。」とうたうのである。これが矢代の手ぎね祭りの起源である。

越前若狭の伝説、福井県の傳説

 

有名な伝説だけに言い伝えごとに内容が違うのですが、私はいつもこの二つ(書・越前若狭の伝説、福井県の傳説)を参考にしているので、今回もそうしました。「書・越前若狭の伝説」も、元は鯖江女子師範学校の「書・福井県の傳説」を参考にしていました。

 

現地の矢代観音にもちゃんと説明が書いてありました。しかも凄い量。

どうも矢代岬の方に「矢代崎弁天宮」なるものがあるらしく、その下に王女たちが埋葬されてあるらしいですね。言い伝えでは。

 

でもそこまで行くのは容易ではないようで・・・、そのためにこの観音堂の横に「弁天小宮」という分社があるようです。

まあ、実際あったんです。

・・・、写真無いけど・・・。なんで消しちゃったんだろうなって・・・。

 

この中には「ぬえ退治」の伝説のことも書いてありましたよ。

 

 


観音堂の内部です。

上には額に入った絵がたくさん。

 

これの一番左の絵が、ぬえ退治の絵なのです。

 

伝説「源三位頼政」

 源三位頼政は、松永、宮川を領し、館を大谷に構えていた。頼政は平治二年(1160)夏天子の御所で怪獣を射止めた。その怪獣の形は、体はとら、足はたぬき、頭はさる、尾はきつね、声はぬえのような鳴き声であった。この怪獣を退治するときに使った矢羽は、稲富浦(または宮川村)の竹で作った。天皇は、頼政の行いをたたえ、稲富浦が新しく頼政の領地に加えられた。稲富浦はこれより矢代浦と改められた。

越前若狭の伝説

こっちの伝説は矢代地区と山を挟んで下にある「宮川村」に伝わる伝説なのですが、ここでも矢代のことについて書かれています。

 


中を覗くことができます。

たしか、神輿か何かが置いてあったと思う。

その大窓の上にはめちゃくちゃ達筆な由緒書きがありました。なので何が書いてあるのかさっぱり読めませんでした。

 

 

あともう一つ、こちらも「宮川村」の方で伝わる伝説となっているのですが・・・、「しょうぶの前」というタイトルで越前若狭の伝説に載っていました。

一応今回は、「矢代」がテーマなので矢代のことが書いてあるところまでを載せておきますね。

伝説「しょうぶの前」

 清水又六兼光は、江州(滋賀県)のある国主に仕えていた。又六の娘があまりに美しかったので、宮中に召し出され、菖蒲の前と呼ばれた。天皇が菖蒲の前ばかりをかわいがったので、ほかの女がねたみ、菖蒲の前はとうとう災いをうけ、矢代浦に流され、ついに殺されて、矢代観音にまつられた。
 父の又六兼光は、娘の行方をたずねて、矢代浦のとなり村宮川へきて住んだ。(以下略)

越前若狭の伝説

 

ちなみに、ほかの文献でも・・・。

『宮川村誌』の中に「清水又六屋敷」の項目で書かれています。

 


では、観音堂の周りを見ましょうか。

 

先ほどの伝説では船の木材でできてるとありましたね。

ホントかどうかはわかりませんが、そう考えるとロマンがありますね。

 

ていうかこの柱を支える礎石。

なんかちょこんと置いてあるだけに見えるんですが、これで大丈夫なんですね。すごいですね。

 

 

地蔵さんと朽ちた木。

 

この地蔵さんの後ろに

8、9体の地蔵さんが。

この数は、唐船の伝説と関係があるのでしょうか。わかんないです。


 

じゃあ、少し集落をまわってみますかね。

立派な石灯篭。

 

手杵祭には、もう一つ重要拠点があります。

というか、祭りの会場となるのはこちらの方なんですけどね。

それがこちらの加茂神社です。

 

手杵祭は、小浜市のホームページでは「加茂神社の例祭」となっています。ということはそうなんでしょうね。

 

 

 

高台に行くと、

「力石」なるものがありました。

この石は古来当区の若者達が力試しをした時使った石です。持ち上げたり肩に担いで歩き常に体力作りに励んだ昔を偲ぶ代表的な区の遺産である。(説明板)

蘇洞門の海底に沈んでいる石を網で引き揚げたらしいです。(「松月観の宿 いたや」ホームページ参考)

子の遺産を後世に残すため、こうやってしっかり整備したようです。すばらしいです。

 

 

その先を少し行くと、

二宮さんの石像が。

学校跡です。

桜の木(たぶん)の下に二宮さんて・・・、なんか、The学校って感じです。

 

 

さて戻りましょうか。


さっきの矢代観音の横の地蔵さんのところまで戻ってきました。

最後は海を見てきましょうかね。

 

まあ、もうすぐそこなんですけどね。

きれいだ。

 

ここに来たんですかね・・・。

 

 

漁か釣りか、海の男たちが集っていました。

また、砂浜もあり、海水浴場にもなっているんですね。


 

はい、というわけで「矢代」でした。

伝説あり、遺産あり、海あり、山あり。

この面積の集落でこんだけ多くの物があるのはすばらしい。それをまもり、遺してきたこともすばらしい。

そんな矢代。

 

では、記録終了。