勝山市 北谷町谷 2月15日 「名所、旧跡、伝説の部」

北谷町谷のお面さん祭りが行われた際に、この谷集落を観光しました。この記事では、その名所などを巡った記録を記します。

もの凄く長いので、時間のある時をおすすめします。

 

祭りの様子は↓の記事で。午前と午後で分かれています。

2月15日。 勝山市北谷町谷。 お面さん祭りが行われました。 谷のお面さん祭り、自分情弱なもので、何時から始まる...
午前の部は↓   「名所、旧跡、伝説の部」は↓ 午前の部では、昼食が終わったところなので、これか...

 

目次

  1. 谷の歴史
  2. 谷城
  3. 伊良神社と番戸の祠(番戸神社)
  4. 谷教会と六地蔵
  5. 不動滝・不動明王像
  6. 柴田の怨石(うらみいし)
  7. 馬つなぎ石
  8. 谷の石畳道、牛首道としゃかの木
  9. 中村の清水
  10. 池平の池(ブナの道)
  11. 旧北谷郵便局(現北谷道具博物館)
  12. 集落の様子

さて、祭りの合間に谷集落を観光しました。

伝説が残っている場所も多く、集落散策だけでも面白かったです。

 


1.谷の歴史

七山家・平泉寺と対決

 北谷の地は平泉寺の勢力に対抗する民衆と一向宗が結びついて、力を持っていたそう。谷峠を越えれば、「百姓ノ持チタル国」加賀だったので、その影響だといいます。
 

 

柴田義宣(監物)と谷城の戦い

 天正三年、織田信長は三度越前に兵をすすめて、一揆の徹底的な掃討をはかりました。一向一揆はすべて捕えて、婦人も子供も焼き殺したり、かまでゆでたり、生き埋めにしたりしました。この討伐には、多年のにくしみがこめられていました。
 のちに信長は柴田勝家を越前国守として北ノ庄城を築かせました。勝家は、北袋(勝山)の地を、その一族柴田義宣(監物)に与えました。
 義宣はまず、一揆残党の討伐を行いました。谷城にたてこもった七山家は、谷川をせきとめて堅く防衛。義宣は城を遠巻きにして城内の食糧欠乏を待ちましたが、牛首(石川県)の一向宗徒が背後から救援を運んだので容易に屈しませんでした。十一月八日、谷村の西脇惣左衛門が義宣を急襲して、ついにその首を斬りました。義宣を斬った場所を殿切原と呼んでいます。谷城は天正四年(1576)、袋田村の名主梅田馬之丞、河合村の名主斎藤甚右衛門、寺尾村の名主斎藤親左衛門らが力を合わせて築いたもので、現在の伊良神社の位置にありました。
 義宣の養子勝安(佐久間盛政の弟)は、六年春、激しく谷城を攻めました。一揆もよく戦いましたが、ついに敗れます。さらに七年、軍を国境方面にすすめて、牛首16カ村(白峰)を従えて北袋門徒の後方を断ちました。
『参考:勝山市史』


2.谷城

伝説「谷城」

 天正二年(1574)一揆は、谷村の西脇惣左衛門を将として平泉寺を焼き打ちした。翌年柴田勝家が越前の国主となり、勝家の一族柴田義宣が谷城を囲んだ。西脇はよく守って数か月ささえたが食糧が尽き、白い砂をついて、遠くから見れば米をついているように見せかけた。そのうちお盆になり一揆の人々は家へ帰った。そのすきに義宣は城に攻撃をかけた。
 このころ、牛首の像が崎に三太夫という者がいた。谷城の急を聞き牛一二頭に米や塩を負わせて救援に向い、坂の上で火打ち石を切って飯をたいた。(それ以来この坂を火うち坂という。)そのとき三太夫は城から火の手があがるのを見て城が落ちたことを知り、無念のしるしに城にむかって一矢を放って帰った。その矢が城門の石橋の上に音を立てて飛んで来たので、義宣はさらに牛首を攻めた。
 西山の峰の少し欠けた所を、「まど」という。柴田の軍勢の動静をうかがった所である。杉峠の峰を「のぞき」という。ここは全村の老幼が避難して柴田勢をのぞいていた所である。

勝山市史

 

伊良神社鳥居前にこのような説明板があり、城の周りの地形を見ることができます。

 

伝説でもありましたが、伊良神社が谷城の跡です。

この神社の石垣は谷城の時の石垣がそのまま残っているそうです。

 

伊良神社の社殿の横には「七山家一向一揆頭西脇惣左衛門」と記してある石碑が建っています。


3.伊良神社と番戸の祠(番戸神社)

村の氏神様です。

伊良神社「伊良(いら)」というのは、洞窟を意味するのだそうです。

 

 谷区の伊良(いら)神社は、この区草創の祖、善阿彌が其の祖神を祭つたのが始まりであつて、元は伊良の宮山の麓の堂屋敷にあつたのを百年程前に現地に移した。この伊良神社の地は谷城のあつたところで、今も塹壕(ざんごう)の趾を認めることが出来る。『福井の伝説 柴田の怨石より』

祭神は天津兒屋根命。(福井神社庁)

 

社殿の中に社殿があります。

 

社殿の上の大棟(おおむね)の部分に謎の模様がたくさん入っています。

 

 

伊良神社境内には、もう一つ社があります。

ここには何も書いていませんが、福井神社庁の方に「境内社名」として書いてあります。

その名も「番戸神社」

伝説「番戸の祠」

 昔、谷に番戸(ばんど)といふものがあつた。庄屋を務め勝山藩に御志納を終へての帰りに、父の帰りを迎へに行つた娘と共に、谷より三町程下の馬のまくしの稱ある所へ村民のために、まくし殺されてしまつた。程経て西野米蔵といふ人の夢に「番戸を祀つて吳(く)れ」といふお告げがあつたので番戸山の麓に祠を建てて父娘の霊を祀つた。この祠は今は伊良神社の境内にある。

福井県の傳説

 

この社の中をよく見ると、背の小さな女性と成人くらいの男性の人形が祭ってあります。おそらく、この二人が伝説にあった番戸の父娘でしょう。

朝は開いていませんでしたが、今日はお面さん祭りなので、昼近く頃に開帳していました。たぶん普段は開いていません。ありがたいです。

 

 

鳥居の近くに何か刻まれている石碑がありましたが、苔で読めませんでした。

 

 

伊良神社にはケヤキが多く生えています。

標柱にもある通り、伊良神社のケヤキ群生は福井県指定の天然記念物に指定されています

 

立派なケヤキが多くあります。

神社の社殿にもしっかりと根を張っています。

 

この谷地区では多くのケヤキを見ることができます。


4.谷教会と六地蔵

私が最初に入った、このお寺が谷教会です。

今回は冬に行ったので、雪囲いがされていて全体像が見えませんでしたが、ここは地域の念仏の場だそうです。

鐘楼もあります。

 

お堂の横には六地蔵が安置されています。

昔は違う場所にあったらしいですが、お参りなど大変だということでこの谷教会の横に移されたそうです。

 

 

この谷教会、実はホームページがあったりします。

「谷のはやし込み」の起点となる場所だそうで、そのホームページに少し載っています。


5.不動滝・不動明王像

伊良神社鳥居の前に、この看板があります。

 

わかっているとは思いますが、↑が不動滝ではありません。

ここから下っていきます。

 

階段を下りると、石畳になっています。この記事の別の欄で紹介しますが、これは「牛首道」という旧道です。

コケや落ち葉が多いく、斜面にもなっているので気を付けます。

 

中央やや右に見える石が、「怨石」というものですが、それは次の↓の欄で紹介します。

 

雪も残っているので、なおさら気を付けないと。

 

旧道なのでしょう。

所々に、意味ありげな石が。

 

右側が崖になってきました。

 

旧道という雰囲気。

 

もう見えてきました。

 

途中、「馬つなぎ石」というのもありましたが、それもこの記事の↓の別欄で紹介します。

川に、大きな石で橋が架けられています。

この石がもの凄く滑るので気を付けてください。

 

川上を見上げると・・・、

まるで原生林のような光景が。

実際はわかりませんがね。

 

石橋の数十メートルほどの先に、

不動滝があります。

 

滝の高さは三〇メートルある。『勝山市史』

 

さっきもちらっと写ってましたが、滝の傍らに不動明王像があります。

 

不動明王像。

 

 平泉寺最盛期の作品で、山をゆく修行者(山伏)の守り本尊として祀られたものである。「天文二十年七月慈明権僧都(ごんのそうず)」と刻まれているが、慈明は平泉寺の僧なのか、あるいは旅の修行者であったのかわからない。昭和四十七年四月二十一日、勝山市の文化財に指定された。『勝山市史』

 

 

不動滝、不動明王像の辺りはちょっとした広場として整備されています。

ベンチもあったり。

 

先があるのでしょうか・・・。

私は行く勇気はないので、ここまでにします。

帰りの景色もまた違います。


6.柴田の怨石(うらみいし)

不動滝へ行く途中の道に「怨石」という石があります。

 

伝説「柴田の怨石」

 不動滝から急坂を少し登ると路傍に小さい穴のある大石がある。これを柴田の怨(うらみ)石といつている。
 昔柴田勝家の甥義宣は北谷村の一揆を征伐して谷城を陥れ、更に加賀の牛首方面の一揆を平定して、帰途この谷区を通つた。其の時西脇がまだ生存してゐるといふ噂を聞いた。西脇とは平泉寺焼打の際には谷区の大将となつた西脇惣左衛門のことで、村岡山に籠って朝倉義鏡をして戦死せしめた一揆の一方の大将で、後には柴田に反抗したものである。義宣は不動瀧の傍に来たとき一人の石工に遇つたので、西脇が生存してゐるか否かを聞いた。尋ねられた石工は實に西脇其の人であつた。義宣は西脇であることを知らなかつたのである。西脇は佯(いつは)つて、西脇といふ人は既に死んでしまつたと答へたので、義宣は槍(やり)の鐺(こじり)で道の傍にあつた石を突いて、彼の生前に打取ることが出来なかつたのを大層残念がつた。この時の突き穴の残つた石が即ち柴田の怨石である。

福井県の傳説

 

 谷城が落ちてから三年たった。義宣は西脇がまだ生きていることを聞いて谷村へ攻めて来た。不動滝のかたわらで、ひとりの石工に出会った。石工は実は西脇であったが、義宣はそれに気づかず、西脇の所在を尋ねた。石工はいつわって、「西脇はすでに死んで三年たつ」といった。義宣はくやしがり槍(やり)のこじりで道ばたの石を突いた。いまも石に槍のあとが残っている。これを怨石(うらみいし)という。
 西脇は滝をよじ登って家にもどり、大槍をもち出し西山の尾根を越え、義宣に追いついて槍を投げた。槍は馬にあたった。馬は片足をあげて踊ったので義宣は馬から落ちた。西脇はとびかかって鎌で義宣を切った。馬の踊った所を、こまの舞、義宣を切った所を殿切り原という。監物山、監物坂ともいう。監物とは義宣のことである。

勝山市史

 

現地の説明板では、槍と刀で切ったとあり、槍の跡と刀の跡がはっきり残っています。

 


7.馬つなぎ石

こちらも不動滝へ行く道の途中にあります。

もの凄く滑る石橋の近くです。

 

このように穴が開いています。

 

穴は下に貫通していて、つなげるようになっています。

「馬つなぎ石」名前のまんまの意味です。


8.谷の石畳道、牛首道としゃかの木

伊良神社鳥居に向かって左側の方に道が続いています。

 

数十メートル行くと、このような看板が。

 

この奥に、石畳の道が続いています。

 

この旧道は石畳の道と記してありましたが、「牛首道」とも言います。石川県の牛首へ続くらしいです。

谷区内の牛首道には、「しゃかの木」というものがあったそうです。

「しゃかの木」

 いまこの木はないが、もとの牛首道にあった。大きな桶を背負った鬼が、「あまめ」を取りに来るが、この木があったおかげでこの村へは入って来なかったという。

『勝山市史』

 

左の壁は木です。


9.中村の清水

集落の真ん中あたりに、「中村の清水(なかむらのしょうず)」という場所があります。

山手の裂け目をつたった清水が地下水となって2本のパイプから流れだしているのもので、70年来の湧水として地元で利用されてきた。『環境省、福井県の代表的な湧水』


10.池平の池(ブナの道)

この昔ながらの建物よりもさらに向こう。北側に、「ブナの道」というのがあります。

 

でもそんなに遠くないです。歩いていける距離です。

 

するとT字交差点があり、こんな看板が現れます。

左上へ登る道があります。

看板の地図には、池平(いけのだいら)と記されています。

「ブナのみち」の先に池平があるのです。

ここには、伝説が伝わっています。

「池平の池」

 むらの農民が「いずめ」に子供を入れて仕事をしていたところ、いつの間にかそのいずめが池に浮いていた。池の主が怒ったからであろうという伝説がある。

『勝山市史』

もうひとつ、この谷区に「池」に関する伝説があります。

伝説「大蛇が池」

 中の俣(また)へ行く道に大じゃがいる池がある。むかしここの大じゃが天へ昇ろうとした時、そこの一軒家のものが刃物で大じゃを傷つけたので、天へ昇ることができずまた池の中へ降りた。この池に石を投げると翌日は必ず雨降りになるという。

『福井県の傳説』

私の力では、「池平の池」と「大蛇が池」は同一の物なのか否かはわかりませんでした

しかし、今回はどちらにせよ「ブナのみち」へはいけないようです。ロープが張ってあります。

冬はいけないのでしょう。


11.旧北谷郵便局(現北谷道具博物館)

雪囲いで見えませんが、北谷道具博物館です。この場所は「旧北谷郵便局」でもあります。

国指定登録有形文化財です。

 北谷道具博物館の建物は、大正後期に民家として建てられ、昭和12年(1937)に北谷郵便局の建物となり、外観を洋風に改修し、内部も郵便局として改修された。昭和60年(1985)の閉局まで白峰方面と福井をつなぐ拠点として利用に供した。北谷の昔の暮らしの道具を展示する博物館として平成30年3月に開館した。(参考:福井の文化財サイト)

ちゃんと郵便局時代の名残もあります。

 

 

写真を撮っていると、区長さんが声をかけてくださって、館内を見せていただけることになりました。

その中で、旧北谷郵便局のお話もしてくださいました。

 なぜこんな山奥に郵便局が置かれていたのかというと、昔この辺りは一番多い時には1000軒くらい家があって大変大きな集落だったそうです。それに加えて、上の説明でもありますが、白峰(石川県)の郵便も担っていたので、この場所に郵便局ができたそうです。

現在は記した通り、「北谷道具博物館」として残っています。

館内は郵便局の造りそのままで、昔使っていた道具、谷地区の立体模型、村の説明、昔の写真が展示されてありました。

 

この北谷道具博物館は、きのくに子どもの村学園が管理しています。昔の道具などは、集落の少し下の方にあるかつやま子どもの村小学校・中学校きのくに子どもの村学園の子どもたちが集めてきたものらしく、立体模型も子どもたちが作ったのだそうです。


12.集落の様子

この先に進むと、

 

山林になるのですが、ここら辺見渡すとしっかりと石垣が残っているのです。

 

この山林まで昔は、家や田畑があったのでしょう。

 


 

以上、北谷町谷の「名所、旧跡、伝説の部」でした。