坂井市 加戸村、三国町嵩「松樹院」

前回の加戸地区から一つ地区を跨いで、三国町嵩に来ました。

この地区に、今回の目的である「松樹院」があるので、参りたいと思います。

 

言い伝えによると、平維盛(これもり)と妾(めかけ)との間の子である「願明」さんがその時の住職「願智」さんの弟子になり、十何代目かの住職になっているそうで、その人は親鸞聖人ともあっているそうです。

まあ、親鸞聖人は北陸に来ているので、会っている人も少なくはないかもしれませんが。

坂井丘陵フルーツラインにこのような看板があるので、見つけやすいのです。

 

正面です。

この手前の木は、実際見るとかなり大きいです。

 

この根の張り方を見ればわかるね。大きいってさ。

 

味のある門。

なんか立派ですね。

 

今回、たまたまお寺の方がいらっしゃって、「伝説があるのですか」という話をしたら、お寺の中を見学させていただけました。

お休みの日だったようでしたが、親切に説明をしてくださいました。本当にありがとうございました。

越前若狭の伝説にも記されていたので、紹介します。

伝説「松樹院」

  応和三年(1163)比叡山の慈恵大僧正は宮中で仲算和尚と宗論の後、故あって越前に下見し、坂井郡角屋村に草庵を設け、しばらく留まっていた。ある夜霊夢があった。草庵のあたりに松の大木があり、東の方から紫の雲がたなびいて、薬師如来が示現され、僧正に「わたしはお前に縁が深い。この地に寺院を建てて、人々を教化せよ。わたしは加護しよう。」と告げた。僧正は喜び、お告げのままに大寺院を建て、名を輪興寺と称し、また松樹院と号した。
 十七代住職に願智という人があった。寿永三年(1184)平維盛(これもり)公が那智で入水したとき、そのめかけは懐胎して七か月であった。公の遺命で当国に来て、あちこちさまよい、角屋村に来たところ、にわかに腹が痛み、たえられなくなった。ちょうど神社があったので喜んでその中にはいると、たちまち痛みがなおって、一男を生んだ。願智はその子の賢いのを見て、請うて弟子にし、願明と名づけた。長じて師の後を受けて住職となった。承元年中(1207)親鸞聖人が北陸に流されたとき、願明は聖人に会い、弟子となって、真宗に改宗した。
 朝倉敏景のとき、嵩に寺地をもらい、ここに移った。

越前若狭の伝説

 

では、お寺の方から教えていただいた話を交えて、紹介していきます。

 

 

 まずこのお寺、松樹院「新郷山松樹院」が正式。この「新郷山」とはあわら市にある場所でした。
 この新郷山には「専光寺」というお寺がありました。この「専光寺」から今回訪問した「松樹院」ともうひとつ、「安養院」というお寺に分かれたといいます。(町の名前はなくなりましたが、一応新郷小学校という交差点はまだ存在しています。)

 

 

新郷山、専光寺があった場所には「安養院」の方が残りました。松樹院の方は、伝説でもあった通り、朝倉敏景からこの「嵩」に土地を貰い建立されたということです。

 

ちなみに、名字も関係があるといい、松樹院は「松樹(まつき)」という苗字、もうひとつは「松木(まつき)」という名字だそうです。

 

 

この嵩に来て松樹院となってからも、伝説の通り朝倉敏景の時代からですからそうとう歴史のあるお寺です。

まあ見ての通り、とお寺の人も言っていましたが、新しいです。

というのも、一度焼失してしまったといいます。

 

 写真の通り、現在はお堂の下は鉄筋コンクリートで固められていますが、前は広い空間があったそうです。その下で、現代で言う「ホームレス」の人が野宿していたらしいです。そこで焚火をしていたらしく、その火が燃え移ってしまって焼失したといいます。

前のお堂は、278年続いていた建物だったといいます。

 

建て替える際、なるべく使えるものは使おうということになり、すすを削って再利用しているものもあるといいます。

(※お堂の中の写真は許可を得ています。)

 たとえば、お堂の中にある柱たち、外陣の柱はすべて昔の物、内陣は4本のうち2本が昔の物だそうです。(さすがに内陣は載せられません。)

 

 278年も経って、焼かれてもなぜこんなにきれいに残っているのかといいますと、昔のお堂で使っていた木材はすべて福井県産の欅(けやき)だったそうで、高級品であり、しかも福井県産であり、地場産ということで福井の気象、環境に慣れている木材だったから、278年経ってもきれいなままで、しかもまだまだ100年以上は使えると言われたそうです

 

こちらの写真にある「虹梁(こうりょう)」も昔の木材だそうです。

 

 昔のお堂を建てたのは、永平寺大工だとされています。その証拠が建て替える時に見つかったといいます。昔の大工さんは(今は知らない)屋根裏の見えない所に、自分たちが建てた証拠に名前を残すのだそうで、そこに「永平寺大工」と記されていたそうです。

 

 こちらの写真の「虹梁(こうりょう)」「斗栱(ときょう)」「欄間(らんま)」も昔のものだそうです。ただ、「欄間(らんま)」に関してはすべて無事だったというわけではなく、所々欠けてしまっていたそうで、修復という形で現在に至っているそうです。

 

 建て替えの前、解体する前のお堂での、最後の報恩講には140人以上の人が集まったそうです。それも今では60人くらいとなっているそうで、さみしくなってしまったとおっしゃっていました。

 

 

 それともう一つ、お堂の中に「篭」がありました。撮影許可は撮ったんですが、お堂内部の壁や窓など写ってしまったので、防犯のこともありますし、掲載は控えます。

 その「篭」はとても歴史のありそうな、良い意味で古めかしい篭でした。

 お話を聞くと、当寺には昔丸岡藩の家老の娘が嫁いできたことがあるそうで、そのときに乗っていた篭であるそうです。そのほかに、その人の里帰りの際にも使われていたそうです。女性用なので少し小さめに出来ています。

 


さて、外に出てきました。

 

そういえば、伝説で「親鸞聖人が北陸に流されたとき、願明は聖人に会い、弟子となって、真宗に改宗した。」とありましたが、親鸞聖人は弟子は取らない方だったらしいです。

 

 

次です。

お寺曰く、松樹院でもっとも有名な遺産は鬼瓦だといいます。

お寺の外に展示してあるというので紹介してもらいました。

こちらは「赤い越前瓦」の鬼瓦だそうです。

この鬼瓦、なんと昔の郷土資料館の人が資料として取材に来たほどだといいます。当時の話では、「もし建て替えか何かで取り外すことになったら、県に資料として譲ってほしい」と言われたほど。

 

赤い越前瓦は希少なもので、現存している数もそこまで多くないそうです。しかし、他にないわけではないといいます。なのになぜここにある鬼瓦がこんなにも重要な遺産かというと、

これほど大きな「赤い越前瓦の鬼瓦」は他では存在しない

のだそうです。

 

そして前述の通り、松樹院は一度焼失してしまいます。

本当は建て替えた新しい建物にも、この鬼瓦を使いたかったのだといいます。しかし、この大きさの鬼瓦を再び取り付けることはできず断念したそうです。

 

そんなわけで、郷土資料館に寄付をしようとするわけですが、当時とは県の財政も厳しくなってしまって、受け取ることができないと断られてしまったそうです。

そして今ここに、保存されているわけですね。

 

 

ちなみにこの「赤い越前瓦」、あの五稜郭にもつかわれていたそうで、現代の復元後も当時のままのできるだけ当時のままの材料を使っていて、その中に「赤い越前瓦」も含まれているようです。

つまり、

今の五稜郭の瓦もこの松樹院の鬼瓦と同じ「赤い越前瓦」なのです。

 

 

 

なんだか、感慨深いね・・・。

 


 

あと、もうひとつ教えていただいた特徴が、このお寺の建っている位置です。

 普通のお寺の場合、立地というのでしょうか、その場所って街や村、集落の高台だったり、山の上だったり、とにかく人の住んでいる場所より上にあるわけですが、この松樹院は、集落よりも下、低いところに建っているのです。

境内を出て、入ってきた反対側の道(こっちが正規だったようです)。この写真わかりますかね。境内側が下っているんです。

しかも、集落側を見てみると、

集落はさらに登ります。

お寺の方の言うように、本当に集落よりも下に建っているんですね。

 

 

 

このように、松樹院とはなんだかものすごく特徴の多いお寺なのです。

 

今回は、ものすごい多くのことを学びました。お寺の人が親切に説明をしてくださったおかげです。

本当にありがとうございました。

 

 

では、松樹院記録は以上です。

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