永平寺町 松岡神明、明神社と芝原鋳物師を伝える御牒

私は、松岡の明神社(みょうじんじゃ)の前にいます。

車通りの多い勝山街道にあり、まさかの駐車場もない・・・。

 

そんな明神社。

 

これ好きなんですよね~。

 

クマさん出そう・・・。

「明神社」

 神明一(毘沙門)にあり、この社の前身意加美(江上)神社は、古くは芝原江上村(江上三ヶ)の総社で、神明宮とも称されていた。松平昌勝入部の時、社領四石六斗併びに山林1ヶ所を寄進し、維新後は台、毘沙門、椚、室の氏神として崇敬されてきた社であった。
 一方、毘沙門町に真言修験別当宝喜院と云われる神仏混淆の社があって、古くよりこの地に祀られてきた毘沙門天を祀り、毘沙門堂とも称し、或は神明八幡宮、明神堂とも称して台、椚、窪の産士神とされてきた社があった。
 明神社は明治の末年にこの意加美神社(神明宮)と、毘沙門堂(神明八幡宮、明神堂)とが合祀されて現在に及んでいる社である。祭神は天照大神である。

註 当社は神仏混淆の社であったため、宝喜院は云わば寺の立場であった。松岡の家中が福井へ引越後、檀家の帰属問題をめぐって、各社寺間にかなりの混乱があった様で、この宝喜院にも、福井柳町宝寿院、西山町山学院等との争論に関する古文書が数葉遺存している。

『松岡町史 上巻』

なるほど、この地が「神明」といわれるのも神明宮から来ているのですな。


 

この明神社、前回の芝原鋳物師とも関わりがあるのです。

 

さきほどからたびたび出てきている『松岡町史』には、「この地の鋳物は室町時代、南北朝時代に盛んに造られていて、現在でも各地に梵鐘などが残っている」という説明がなされたうえで、こうも書かれています。↓

養老の御牒(みちょう)の伝承

(中略)

 ところで、この芝原の鋳物の起源は更に古く、奈良朝の頃より行われていたと云う伝承があり、しかも当時の奈良の朝廷より、養老七年にこの地の鋳物師に対して下されたと、称せられている古文書も、この地に伝えられている。
 この古文書は、古い時代から芝原鋳物師として知られている渡辺家に、「養老の御牒」または「薄墨の御綸旨」とも云われて、代々秘宝として伝えられてきたものであるが、後、何時の頃からか毘沙門町神明宮の別当宝喜院へ、年々米一斗を付して預けたと伝えられているものである。現在は、明神堂境内の神明宮に納められていて、平常は容易に見ることが出来ないものである。
 御牒は、薄墨の料紙にしたためられている上に、古色を帯び、シミ喰いもあって判読しがたいものであるが、幸い福井県鋳物史誌に藤本留男氏が他の資料を校補して解読したものと、豊島庸人氏の判読記録があるので、それにより全文を示すと次の様に書かれている。

(略)

『松岡市史 上巻』

 

松岡市史にそのあとの御牒の文も書いてあるので、全文は実際に見た方が確かです。

 

それにしても、

なんだかものすごい歴史の中に踏み込んでしまった気分ですよ・・・。

 

境内社たち。

 

福井神社庁には・・・、

境内社:河濯神社、稲荷神社

明治四十一年越前電鉄が、福井市と大野市とを結ぶ鉄道線路敷設事業計画立案の際に、松岡駅の用地が神明社の境内にかかることになったので、協議の結果、町発展のため境内地を譲渡して、七面山明神堂と合祀して七面山(現在の明神山)山麓に社殿を遷すことが決せられ、明治四十二年五月二十五日、竣工遷座した。
それ以来、明神社と尊称してきたことによる。

(中略)

社宝「養老の御牒(おちょう)」は、『松岡町誌第一篇郷土松岡(昭和二十二年発行)』によれば、宮廷御用の御鋳物師としての営業を千百年にわたり継承してきた芝原鋳物の往時の息吹きを今に伝える綸旨である。養老七年(723)の三月に今の大蔵大臣、時の御蔵民部大丞紀遠仏をして越前御鋳物師に賜った御牒が、芝原鋳物師渡辺氏に伝えられ、当社の前身、毘沙門神明宮別当宝喜院の内に保管されるようになったものである。
別名、薄墨の御綸旨と呼ばれたこの御牒はすこぶる珍重に扱われてきたが、今も菊紋付の墨塗りの筥に古色帯びた綿に包まれ、神職家で保管している。

『福井神社庁』

こちらにも御牒の記述が。これは確信ですね。

もっと詳しく書いてあります。境内社のことも書いてあるので、気になったら福井神社庁ホームページの方へお願いします。


 

明神社編はここまで。

この神社、この地域にはかなりの歴史が刻まれているのですね・・・!

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